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2019.11.01 [イベントレポート]
「我々は自分の生活あるいは人生に一貫性を求める生き物」10/31(木):Q&A コンペティション『ディスコ』

ディスコ

©2019 TIFF
10/28(月):レッドカーペット登壇時のヨールン・ミクレブスト・シーヴェシェン(監督/脚本・右)、ヨセフィン・フリーダ(女優・左)

 
10/31(木)コンペティション『ディスコ』上映後、ヨールン・ミクレブスト・シーヴェシェン(監督/脚本)、ヨセフィン・フリーダ(女優)をお迎えし、Q&Aが行われました。
作品詳細
 
ヨールン・ミクレブスト・シーヴェシェン監督(以下・監督):来日して何日か経つのですが、本当にすばらしい国で、東京国際映画祭の皆さんに非常に温かく迎えて頂き、楽しく過ごさせて頂いています。東京では今のところ、『ロスト・イン・トランスレーション』に登場したバー(パークハイアット)に行きましたし、カラオケも楽しみました。レッド・カーペットも歩くことができて、本当にありがたいです。
 
矢田部PD(司会):ありがとうございます。そしてヨセフィンさん、輝きすぎて、ちょっと顔を向けることができないほどなのですが、一言お願いできますか?
 
ヨセフィン・フリーダ(女優):今回東京に来て、本当にこの街が大好きになりました。この街に流れるエネルギーがとても素敵だと思っていまして、街なかを見ていても、走っていたり早歩きをしていたりといった人がいなくて、皆さんゆったりと時を過ごしているようで、こちらまで気持ちが落ち着いてきます。あと接してくださる皆さんがとても優しいので、大変楽しい時間を過ごさせて頂いています。
 
矢田部PD:ありがとうございます。まずは私から監督にこの映画の始まりについてもお伺いしたいのですが。恐ろしい物語ではあるんですけれども、実際にどれくらい事実に基づく部分があるのか。もちろんフィクションとして作っていらっしゃるとは思うのですが、事実に基づく要素がどのくらいあるのか、お伺いしてもよろしいでしょうか。
 
監督:この作品を撮るにあたり、いろいろなリサーチをしたのですが、いろいろな人の証言などを寄せ集めましたので、パッチワークと言ってもよいかと思います。こういったキリスト教の教団を脱会して、自分の体験を語ってくれる証言者が何人もいて、そういう方たちがまた別の方々に繋げてくださって、そうやっていろいろな人の話を聞いたのですが、最初はノルウェーにおける現代のキリスト教文化を広範囲に描こうと思って、リサーチを始めました。特に印象に残ったのが、いわゆる現代のモダンな教団は、すべてペンテコステ派から派生しているんですね。そこに興味をもつようになりまして、何が信者を引きつけるのかというのが、気になりました。天国や地獄といった概念が当然あるのですが、そこに属している子どもたちが、やはり神経症に陥ったりするんです。「学校の成績が悪かったら私は地獄に落ちるんだわ」などと思い込まされているものですから。そういうことを見ていて、とくにペンテコステ派の新興宗教といいますか、宗派に興味をもつようになりました。
 
矢田部PD:ありがとうございます。ヨセフィンさんは、もともとディスコダンスをなさっていたということがキャスティングの一つの理由だったと伺ったのですが、改めてこのヒロインが陥っていくような状況を、ヨセフィンさんなりに調査したり、そういった人に会ったりなど、役作りでなさったことがあればお教えいただけますか。
 
ヨセフィン・フリーダ:私も役が決まった時点でいろいろな教団や集会にでかけたりして、たくさんの人の話を聞きました。彼らがどういった境遇に置かれたのか、どういった環境の中でそういうことをやったのか。またいろいろな牧師さんともお話をさせていただきました。そうやっていろいろな人の証言を聞いてきたわけですが、まったく知らない世界だったので、彼らの状況について、より深く理解しなければならないという危機感をもってこの役にあたりました。
それと、監督ともよく話し合いました。なにせいろいろなリサーチを重ねている監督ですので、またこのテーマについて熟知しているので、何よりも監督がこの映画で何を伝えたいのか、そして私はどんな役割を果たすべきなのか、ということをよくわかったうえでこの役にあたらなければならないという自覚がありました。幸い監督ともじっくり時間をともに過ごすことができたので。
 
監督:あなたが美しいからよ。
 
ヨセフィン・フリーダ:それが、この役をやるうえでは幸いでした。というのも、この役を演じるには、かなりダークなところへ気持ちを持っていかなければいけないので、監督と私とでお互い信頼関係がないとできないので、これはきっちりと演じようという意気込みで役にあたりました。
 
矢田部PD:ありがとうございました。夜も遅くなってまいりましたので、質問はできれば短めにしていただけると、たくさんお受けできます。よろしくお願いいたします。
 
Q:これが現実をベースにしているということに大変驚いています。今、アメリカでさえ十代は教会にほとんど行かないといいますし、イタリアの監督から聞いたんですけれども、カトリックのおひざ元のローマでも信者が減り続けている。ノルウェーでは、こういう形のいわゆる「カルト」と言っていいんでしょうか、モダンというかキリスト教の宗派みたいなものが、増えているんでしょうか。もし増えていると言ったら、その背景はどういったことが考えられるんでしょうか。
 
監督:そうですね。1つには、どうしても文化的にノルウェーはそんな宗教色の強い国ではないのですが、まあ確実にキリスト教の歴史を組んできている国ですので、キリスト教文化の根付いた国ではあると言えるんじゃないでしょうか。やはりとても身近な宗教ではありますよね。親戚の誰かが信者であったり、教団にいたりという、そういう状態ですので、皆さん何かしらの宗教は信じているというのはあると思います。それはノルウェーの国教であるかもしれないし、ぺンテコステ派の何かかもしれないし、それ以外の宗派かもしれません。で、これは私も驚きだったのですがどうやら一見見た目よりもいわゆるモダンな教団、教会っていうのは、増えている傾向にあるようです。一見進んだ民主主義社会で、要はその教会によるルールなどに強いられていないという社会に見えるんですけれども、こういうモダンな教団が増えているあたりは時代を逆行しているなという風に思います。それで、いわゆるこのモダンチャーチというのは、アメリカをベースにしているものが多くて、この映画に登場させている教会もアメリカでの教団をモデルにしたものもあります。実際に起きている事件ですとか、そういうのもノルウェー人の体験談だと思っています。
 
矢田部PD:どうしてか、というところは。
 
監督:これがなぜか、ということに関しては私自身もちゃんとした答えにありつけていないのですが、まあ1つ感じることは、やはり人間の根源的な欲求といいますか、我々は自分の生活あるいは人生に一貫性を求める生き物でありまして、人生に何らかの意義と言いますか、日々感じているこの現実になにがしかの意味づけをしたいという生き物ですので、そういう中からこれぞ私の真実であるみたいなものに、往々にしてありつけた気になるわけですよね。特に西洋の世界においてはなんだって可能である。その分非常に物質的な世界になっているというのも事実ですし、なんでも儚い消えていく危うさがあるという上で、生きているという感覚は皆さんあるわけですから、そういう中でやはり周りを支配したい、人を説得したい欲求が出てくるんじゃないかと思うんです。それの1番やりやすいというか、ショートカットって監督はおっしゃってましたけど、1番やりやすいやり方が「私はこう信じている、これが真実である」という風に説き伏せるという方法だと思うんですね。その根源にあるものはやはり他者を抑圧したいコントロールしたいっていう衝動でありまして、それはですから、宗教にかかわらず人間関係の間でも必ず浮上する問題であって、これはとても怖いことだと感じています。
 
Q:今日は、ヨセフィンさんの美貌にも魅了されましたし、とても夢のような映画の時間を過ごすことができました。日本の宗教も多神教で独特だと思うのですが、カルトとカルトじゃない宗教の線引きが分かりづらいと思うのですが、監督とヨセフィンさんが考える境目とはどのようなものかお聞かせいただけるでしょうか。
 
監督:この映画を撮った後、自分はこういったリサーチをしてきて、というのを公言していました。いろんな教団を訪れたり、いろんな集会に行った。ペンテコステ派の集会にも行った、ということも明言していたので、ノルウェー国内ではいろんな議論が巻き起こりました。では、実際カルトか否かという線引きですが、私がこのリサーチについてお話しするときはあくまでもコングレゲーションにいきました。つまり、教団を訪れ教団でリサーチをした、というような言い方にしていました。似通っている部分もありますし、カルト教団とそうでない教団で当然ながら神学的な部分では教場は非常に保守的でありますが、これはカルトだな、という特徴としていくつか挙げるのならば、悪魔祓いが行われたりとか、ヒーリングが行われたりだとか、信者や牧師が異言語で何かを発したりだとか、そういう傾向というか現象はあるようです。映画の中に登場させている教団についてお話をすると、最初の教団(フリーダム)はノルウェーとアメリカにある教団をモデルにしたものです。2つ目のテレビで話しているものもリアルをベースにしたものです。
最後のものは、自分自身もモラル的な問題のジレンマがあって、というのはいろいろな証言者の話を聞いたのですが、信者が名乗り出たくなかった。だからこういう教団ですというのを名指ししたくなかったですし、名前等は伏せたかったので、最後のはあくまでもフィクションとして描いていますが、起きたことは実際の証言に基づいたもので、私としてはこれをカルトと言っていいのではと思うのですが、カルト教団を信じている信者たちは当然ながら自分たちのことをカルトとは思っていないわけで。難しい問題だとは思います。
 
矢田部PD:映画の表現でお聞きしたいことがありまして、ファーストシーンがヒロインは海というか湖にうつ伏せになって手を広げている。うつ伏せで始まってうつ伏せで終わる、という演出の意図をお聞かせ願えますでしょうか。
 
監督:ご質問ありがとうございます。シンボリズムを私は映画の中で使うのが好きで、時として台詞よりも雄弁に人の心情や人格や人と人の関係だとかを語り、ストーリーを運んでいくので、最初と最後のシーンは一つのシンボリズムであります。暴力が連鎖しサイクルになっていくことの一つの表れというかシンボルにあれはなっています。
また元に戻ってしまう、それが永遠に続くことの表れです。冒頭の彼女のうつ伏せのシーンは何か疑いを抱いている心であったり、彼女の揺らぐ心であったり、彼女がこれからどうなっていくかを暗示するシーンでもあります。
 
Q:冒頭のお二人のお話の中に、とても信頼関係を持たれて撮影をしていたという話がありましたが、女優さんにお聞きしたいのですが、精神的に追い詰められていく・追い込まれていくという役で、ご自身としては役を演じるうえでどんどん役に入り込んでいって精神的に不安定になっていってしまうタイプなのか、それとも現実の自分自身としてと、役としての精神状態のバランスを保っていたのか。大変な現場だったと思いますが、どのように(自分自身と役の)バランスを取ろうとしていたのか。エピソードがあればお聞かせいただきたいです。
 
ヨセフィン・フリーダ:やはり切り替えは意識していましたね。あまり入り込みすぎないように。そこは監督に助けられた部分もあったのですが、当然ながら撮影は毎日続きますので、カメラを回し終えてから監督が何でもない話をしてくれるんですね。そういった雑談をしてガス抜きをしていました。でないと現場に行ってうつ状態を演じてまた帰ってまた起きて現場行ってうつ状態…という状態が続くと参ってしまうので。でも、どんな役にも言えることだと思うのですが、仮にハッピーな役だったとしても自分を見失う危険性はあると思うのでお芝居って。かつ、この作品では監督は何よりも真実味を持って演じてほしい、リアルに演じてほしい、というのにすごくこだわりがあったようなので、私としてはかなり難しい役ではありました。というのも、私はたまたま女優になったようなものですので、そういう演技の勉強といいますか、テクニックをあまり知らないんですね。なので、ミリアムが感じていることを私自身も感じないといけないので、そういう面でバランスをとるのは難しかったです。でも、終わってみればやり遂げた感というか、充実感がありました。ですが先ほど言ったように監督との信頼関係があってこそできることですし、また役も熟知すれば熟知するほど住み分けが逆にしやすくなります。知れば知るほど、どこまでが私でどこまでがミリアムかがはっきりしてくるので。なのでそういったことも意識していました。ですが、どのように役と距離をとるかという点にお答えしますと、ミリアム(の心情)を感じるときはミリアムというフィルターを通して感じるようにして、ちょっとワンクッション置くようには意識していました。

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