11/4(月・祝)コンペティション『湖上のリンゴ』の上映後、Q&Aが行われ、レイス・チェリッキ監督が登壇しました。
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矢田部吉彦PD(以下:矢田部PD):チェリッキ監督、この美しい作品を東京に、コンペティションにワールドプレミアで出品してくださって本当にありがとうございます。まずは監督に皆様へご挨拶の言葉を頂戴できますでしょうか。
レイス・チェリッキ監督(以下:監督):(日本語で)ありがとう、どうも。(ここからトルコ語)まずはですね、最もお礼を申し上げたいことなのですけれども、世界の中ではたくさんの映画祭がありますけれども、その中で今回この作品を選んでくださいまして、東京国際映画祭にお礼を申し上げます。たくさんの映画祭が世界にはございますけれども、独立系の映画を選んでくださって、そういう特別な視点を持ってくださって皆さんと私とをここで引き合わせてくださった皆様に心から感謝申し上げます。
矢田部PD:一種の寓話といいますか、おとぎ話のような設定ということで理解はしたんですけれども、たぶんこれは実在の村の物語であり現実の物語であると、言う風に描かれているのかどうか、そこを間違っていたかも含めて教えて頂けますでしょうか。
監督:人生というものを見ていきますと、この世界というもの、これは本当にあるものなんだろうか。そういったものは空想上のものだろうかとこういった哲学についてですね、私たちは問い続けていることになります。そもそも映画や芸術も、こうした問いかけなんですね。こういった問いかけを一堂に集めて私たちはその話し手として表現をしているということになります。この村は実際に存在する村で私が生まれたところの地域であります。私が子供のころに見たもの、そして空想したもの、また私が実際に現地で体験したことをそのまま今回こちらで表現しようとしました。そしてやはり空想と現実の間で行ったり来たりしていくわけですけれどもこれからもこうやって続いていくことになりますね。
Q:楽器の位置づけや役割、監督の思いがあったところについて教えて頂きたいです。
監督:人々が表現する形は色々あるのですが、その中でも言葉ですね。そして、楽器が使われます。自分の内面を表現するとき幸せや喜び、悲しみあるいは、嬉しくて笑いたいことを表現する楽器というものがあります。それに応じて、その土地、その土地で楽器が発明されていったわけです。ドゥドゥクと呼ばれるフルート系のものや、トルコ人やアルメニア人やジョージア人やイラン人などの多くの人が好んで使う楽器があります。それがとてもドラマチックな音を出す楽器、サズです。そのサズの音を伴って様々な詩が歌われていきます。私自身もこの楽器が好きで、弾くこともしています。社会が持っている感情というものを表現できるような楽器です。
Q:アルメニア人の虐殺のことについて今暮らしている人々は特に思いなどはなく暮らしているのでしょうか。
監督:世界には様々な悲しみというものがあって、もちろん感じられるわけです。でもそれを撮っていこうとすると、私たちは過去に基づいて人生を築き上げていかなければならないといけないというわけですから、日本からアメリカに旅立って、また次へと、世界中を一周して、旅をしなければならない、ということになってしまいます。ですので、この社会に関して、人間社会においてももちろん色々なことがあります。常に世界において虐殺や死や悲しい出来事、不幸なことなど色々なことがあります。でも私たちはここでいい人生を生きて作っていこうではありませんか。もちろん忘れないようにはいたしましょう。私が語ろうとした地域においては、ナイーブな恋の物語を出そうとしたんです。この中には宗教や運命や悲しみなど色々な様子が交わっています。そうした人々の物語なんです。またこの映画はこれだけでもあるんです。それを私は表現しようとしました。でもその他にどなたがどんな風に感じたか、あるいは感じられたいのであれば観る側の自由なので、もちろんそれは構わないことです。
矢田部PD:監督に最後のお言葉を頂戴したいと思います。
監督:まずは、次のことを申し上げたいと思います。映画を創る…正しく言えば文化を創る、ということになるのですが、様々なものがあります。その中で、私たちは喧嘩をしないで味わうことができる英知なもの。その世界こそが映画です。
様々な文化について、そして厳しいことも言うかもしれない様々なストーリーについて、私たちは映画で描いています。
厳しい政治的なことも映画で表現したりします。また、観ていただく映画には(自分とは)違う反対の意見についての内容が出てくることもあります。でも、それによって喧嘩をしなくてすむ唯一の世界ということになります。どんな人が隣に座っているのか、政治的意見があればその考えは何なのか。そのままの姿で座っていただいて、友達同士で映画を視聴していただいて、そして映画館を出ていくことになります。文化こそがこれを成功させることができるのです。こうした、皆さんがとても温かい心をこちらに見せてくださって、そして芸術をサポートしていただくことに関して私は深く感謝申し上げたいと思います。
私は、いつも自分の作品を作る時、自分のことをディレクターとは紹介していないんですね。自分はストーリーテラー・物語の語り部であるというように紹介しています。この映画に出てくるアーシュクの伝統には次のようなものがあるんです。私も行った先々でアーシュクの伝統のようなやりとりをすることがあるのですが、例えば、アーシュクが兄に呼ばれてお客さんとして招かれます。そうすると、そこにいる人々から、彼に少し話をしてください、と言われることになります。
例えば、1つの手がかりとなる何か例えを示されるんですね。それは1つのコップかもしれないし、ワインかもしれない。あるいは、何か別のものかもしれない。何か1つ言葉を出されて、それに基づいてストーリーを展開してくれ、語ってくれ、ということになるんですね。それで、アーシュクは語りを続けることになるんです。もし、話が短く終わってしまったら、そこのサービスがあまりよくなかったということになります。あるいは、お客さんとしてあまりよく迎え入れられなかったと。
あるいは食事があんまりだったとか、そこの女性が美しくなかったなど、そういったことがあったらお話は切ってもらって、ということになります。一方で、食事が大変素晴らしい、女性がみな美しい、皆さん笑顔で楽しそうだ、いらっしゃる男性はとてもハンサム、雰囲気がよい、ということになったら、終わりというものはなくいつまでも彼はストーリー・語り部を展開していくことになります。
それが何週間も、あるいは何か月も続いていくことになります。ストーリーが続いていくんですね。私も、日本でだったら同様にエンドレスに語り部を続けることができるように思います。ですが、今回は仕方がないのでここで“短く”終えることにします。
これからもできる限り皆さんの前に語り部として立ち続けたいと思っています。ありがとうございました。